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この10月にテレビ放送も開始した『ガンダム Gのレコンギスタ』。富野由悠季総監督が『∀ガンダム』から15年ぶりに手がけるテレビシリーズの「ガンダム」である。
11月5日に73歳の誕生日を迎えた富野由悠季総監督に、『ガンダム Gのレコンギスタ』を語っていただいた。後編ではキャラクターやドラマについて語っていただいた。
―『G-レコ』に未来への期待が込められていることはわかりました。では逆に聞きたいのですが「種」の部分ではなく、「おバカなロボットアニメ」としてはどのあたりを見てほしいと考えていますか。

富野由悠季総監督(以下富野)

それは「いろんな人がいるっておもしろいじゃない」ということです。これは表現という意味ではある程度達成できたという感触があります。

―それはたとえばどういうシーンですか。


富野
第1話のチアガールのシーンです。情けないことに僕は、絵コンテを描いた時にあそこまで賑やかになるなんて想像してなかった。ドラマのバックで進行する芝居だから、そもそも最低限の意味さえ伝わればいいぐらいのつもりでいたんです。
でも作画のパワーが想定以上のものを見せてくれた。あそこまでいくと「チアガールだって伊達じゃないんだ」「毎年の恒例行事なんだ」っていう存在感が一発 で伝わります。あそこでチアガールたちががんばってるのがあれだけ存在感たっぷりに伝われば、デレンセンがぶーたらぶーたら文句を言っていても、じゃあ、 来年以降ホントに締め出しをするかといえば絶対にそんなことはないわけだ、という事が分るとても面白い感覚でしたね。

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―デレンセンがノレドの声に手だけあげて応えてみせるところなんかは、口ほどに怒っていないことが伝わってきました。

富野

かわいい女の子たちに存在感が出れば、そのほかのシーンもまたドラマが印象的に際だってくるんです。悔しいのは、第1話がそういうことになっているということに気づけたのは、うかつにもアフレコどころか、ダビングの時だったんです。
でも今のアニメの「こういうのがカワイイんでしょ」っていうようなやり方では、キャラクターはかわいくはならないんです。もっと、普通のかわいらしさでな いと、「なんかあの子、気になるよね」とはならない。そして多くの人たちに女の子たちがかわいいと思ってもらえれば、ビジネスもうまくいくし・・・・・・ (笑)。

―(笑)。存在感という意味でいうと、教官のケルベスも第2話あたりから独特の存在感を放ち始めています。

富野

ケルベスなんか典型的な例なんだけれど、ああいうキャラクターの活躍は脚本には書かれていないのです。第2話だとベルリと囚われのアイーダが接触して、や がてG-セルフに乗るという状況論がまずあります。そういう脚本がある中で、美術設定があがってくると、当然ながらベルリたちのいるところと、G-セルフ が収納されている場所には一定の距離があることがわかる。その設定をよしとするなら、演出家はその距離をどうやって埋めるか考えなくてはならない。G-セ ルフを誰がベルリのところまで持ってきてもいいんだけれど、G-セルフは設定上、動かせる人が決まっている。となるとケルベスを使うしかない。そして登場 させると、ケルベスの自己主張が始まるわけです。ガンガン自己主張してくる。結果、レギュラーとして居着いてしまうキャラクターになりました。

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―キャラクターが自己主張を始めるんですか。

富野
そうです。僕の場合は“劇”にしていく過程で当たり前に起こることです。

―もう少し詳しく説明してください。


富野
物語を作る時に、作者というものがいるわけだけれど、僕程度の人間だと、全登場人物のあり方をイメージして書いているわけじゃないんです。どうしてもス トーリーを進行する人物だけ追っかけて書いています、それが絵コンテになると、ストーリーを担っている人物の後にいろんなキャラクターが立っているのが見 えてきます。そうするとただ立たせているだけではもったいないから、そこに“劇”をつくりたくなる。それで演劇として組んでいくと、キャラクターが主張を 始めるんです。三谷幸喜さんのような人なら最初からそういう脇の動きも想定できるんでしょうけれど、自分の場合はどうしても、絵コンテで後追いで膨らめて いくことになるわけです。

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―富野監督の作品でいろいろな脇役が印象的なのはそういう理由があるんですね。

富野由悠季総監督(以下富野)
それは演出家が、そこにいる人間をその人らしく見せようとするなら、当然のことだとは思います。でもおかげで『G-レコ』はキャラクターが増えすぎて……。
先日アフレコで「なんでこんなに登場人物がいるの?!」って言ったらスタッフから「それはあなたがやったからですよ」って言われました(笑)。

―もともと富野監督作品は登場人物が多いですよね。


富野
今回は今まで以上なの。でも、ロボットものをここまで作ってきて思うのは、メカの描写というのはつくづく“劇”にはなりにくい。演劇的にはならない。

―でも、富野監督は戦闘中に会話の応酬を織り込んだりして、メカシーンを“劇”にしようとしてきたと思いますが。

富野

いや、あれは結局、“劇”っぽいものでしかなったと言えますね。メカシーンでいうならたとえば「G-セルフ発進します」というセリフ、1回は言わせることができます。でも2回、3回と同じことを繰り返すわけにはいかない。
そこで“劇”にするために繰り返さず、どうするかと考えます。いつもシートに座っていていいのか、一人がいうだけでいいのかどうかという状況論もあるし、 セリフも変えていく。それが演劇として考えることだし、“劇”として見せていくことにつながるんです。“劇”はまず人が動かなくてはいけないものだから、 そういうことを考えて絵コンテの直しをしていたら、今朝提出した絵コンテでは戦闘シーンがなくなってしまいました。

―なくなってしまったんですか。


富野

結局、この話数は人間側の動きだけのほうがおもしろいだろうというふうになってしまったんです。でもこちらでメカシーンはいらなかったと判断して直す以 上、責任は大きい。ちゃんとそこをおもしろいシーンにしなくてはならなくてはいけませんから。そうなるとコンテを直しながらいちいち立ち止まることになり ます。そうして頭を使って、自分の中のなけなしのアイデアをしぼり出しながら“劇”を構成していくコンテ作業をする事になります。

―想定していたストーリーを、そうやってドラマで肉付けしていくんですね。


富野

そうです。メインキャラクターのストーリー作りもまった同じやり方をしています。今回はキャピタル・タワーを設定して、ベルリとアイーダという2人を敵味 方に配置した。さらに設定に関わるキャラクターとしてラライアも登場させる。この枠組みを作った後は、何一つこちらの都合で動くわけにはいかなくなってし まったんです。
アイーダがメガファウナへ帰ろうとすると、ベルリまでくっついてきてしまって、しかもノレドまでそこにいる。キャラクターに“劇”をさせていくことでストーリーにしているという点では『G-レコ』はかなり生っぽい肌触りの物語になっていると思います。

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―つまりお話をまとめると「いろいろなキャラクターがいる賑やかさ」というエンターテインメント性と、子供たちの未来に期待する「種」が共存しているのが『G-レコ』なんですね。

富野

そこも決して分離しているわけじゃないんです。その世界の成り立ちと登場人物のメンタリティは密接に結びついているはずなんです。最近読んだ『やまとなで しこの性愛史 古代から近代へ』(ミネルヴァ書房、和田好子)を見るとそういうことがわかります。江戸時代の結婚などにまつわるさまざまな決まり事が、庶 民から将軍までの性に関するメンタリティを支配していたことがわかります。
今から見れば奇妙に見える習慣を支えていたのは、制度そのものというより、そこに適応していく方向で形成されたメンタリティなんです。このメンタリティに 従うということが即ちリアリズムということです。でも、人間はリアリズムだけでは生きていけない。そこで夢が生まれます。江戸時代であれば歌舞伎であり人 形浄瑠璃がそれに当たります。

―人間の中には「リアリズム」と「夢」の二つが入っているのですね。


富野
『G-レコ』の場合は、ファッション論と技術論の部分がリアリズムに則っていて、その上のキャラクターたちのストーリーは「夢」でできています。そして 「種」は、その「夢」で描かれたことを、遠い将来にリアリズムに転換できることを願って仕込んだものです。こういうことは『∀ガンダム』ではできませんで した。『G-レコ』だからこそできたことです。
……
少し難しい話になりましたが今は『G-レコ』で面白そうなシーンをいろいろ作れることにワクワクしています。第13話、第14話あたりもまたちょっと面白いと思っているので、放送を追いかけていただければありがたいなと思います。


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